今回の大会開催地である名古屋市は愛知県西部・尾張地方の都市で同県の県庁所在地。日本列島の真ん中、中部地区および東海地方最大の都市で、東京23区、横浜市、大阪市に次ぐ全国第4位の225万人(2009年10月現在)を有する大都市だ。そして私もこの名古屋市で生まれて小中高と育ち、大学時代は東京で過ごしたが、再び地元に戻ってからはその大半をここで過ごしている。
関東と関西の間に位置し商業も盛んな一方で、日本有数の企業の一つであるトヨタ自動車の本拠地である豊田市や三重県の四日市市などとともに、中京工業地帯の中核をなす工業都市でもある。2005年には日本国際博覧会である愛・地球博も開催されて注目を集めた。
スポーツではプロ野球の中日ドラゴンズやサッカーJリーグの名古屋グランパスが本拠地を置き、近年ではフィギュアスケート女子の浅田真央選手や安藤美姫選手などの有力選手も輩出している。またこの大会が開催された前年の2009年には、夏の高校野球・甲子園で同県代表の中京大中京高校が全国制覇を果たして話題を呼んだ。
それ以外の名古屋の歴史などについては2009年に出場した2009名古屋シティマラソンで詳しく紹介しているので、そちらを参照して頂きたい。
名古屋市緑区は市の南東部に位置する区で、面積は37.84km2と港区に次ぐ広さを誇ります。
1963年から64年にかけて愛知郡鳴海町・知多郡大高町と有松町の3つの町が編入されてできた区で、住宅地として開発と区画整理が進められ2011年春にはついに区内の徳重まで地下鉄桜通線が開通しました。
人口も増加傾向にあり、2010年には230,374人(2010年11月現在)と市内で最も人口の多い区になっています。
北部の鳴海地域は東海道の宿場町で名鉄名古屋本線が、一方大高緑地のある南西部の大高地域にはJR東海道本線が通っています。
また南東部の有松地域には今回紹介する有名な桶狭間の旧跡もあります。
一方大高緑地はその緑区にある都市公園で面積は98.8haと約100haの広さがあり、緑豊かな園内は樹木や花、昆虫がたくさん生息しています。
琵琶ケ池のボート乗り場やゴーカートのある交通公園やプール、ベビーゴルフ場、野球場、テニスコート、ゲートボール場、デイキャンプ場なども整備されていて、市民の憩いの場となっています。
そして車での来園にも便利なように1200台が駐車できる駐車場が完備され、横を通る国道1号には渋滞を防止するために立体交差道路も作られています。
今回は名古屋市内での大会でこの年末年始はほぼずっと名古屋の方に滞在。前日は仕事を頑張りつつ、夜23時ぐらいに近くの西友へ明日の朝ご飯用のパスタなどを買い物に行く。
それからマラソン大会についてと桶狭間について調べたのだが、地図を調べてみると問題なく自転車で行けそうなので電車は使わないことになった。調べ物が済むと風呂に入って1時ぐらいには就寝する。
12月26日日曜日大会当日の朝、この日は7時20分ぐらいには起き、テレビを見ながら大会出場の準備をする。
そして朝食には恒例のボンゴレビアンコのパスタを2つ食べた。
そしてほぼ予定どおり8時17分に自転車で出発。これまで名古屋でもいくつかの大会に出場しているが、自転車を使って会場に向かうのは初めて。変速ギアのついたローバーの自転車のマラソン大会デビューとなった。
まずはこの当時仕事の都合で毎日のように通っていた植田一本松の交差点に到着、もちろん道に迷うということもなくスイスイと進んできたのだった。
それから交差点をひたすらまっすぐ南へと進み、塩釜口から八事へと続く飯田街道と交差する交差点まで進んでいく。
そこまではこれまでも何度も行ったことがある道なのだが、そこから更に南へ大高の手前にある中汐田という交差点までの長い自転車道はまったくといっていいほど未知の領域。それでも道は広い方であるし車道も日曜の朝早くということで車の量は少なく、まったく問題なかった。
ただひたすらまっすぐの道がずっと続く上に周りは民家と店はあるものの単調な道のりであったため、行きはまだよかったが帰りは精神的にきつかったのはよく覚えている。
印象に残っていることといえば作業服・手袋のシラキという店が黄色い指の看板の前を通ったこと、地下鉄桜通線の野並駅前を初めて通過したこと、最中で「もなか」ではなく「もちゅう」と何とも縁起のよくない交差点があったりといったことぐらいだ。
そうこうしているうちにようやく中汐田の交差点に到着したのが8時54分ぐらいで、家から35分ぐらいかかった。
そしてそこでようやく左折し今度は東海道をずっと東へと進んでいくのだが、ここも取りたてて何かがあるような道でもなく普通の住宅地という感じの街並みが続いていく。
それから時刻が9時を回った頃、ようやく変化が見られ高架のある道へと差しかかったのだが、もうそこは大高緑地の入口であった。
ちなみにその高架へと続いて行く道の入口には「大高緑地」の矢印が出ていて最初そちらなのかと行きかけたのだが、確かにその高架は通りの上を通って右にカーブし大高緑地まで数百メートル続いているのだが、実際そこを通らなくても高架の下をくぐって通りを右に曲がれば大高緑地公園の入口へは行くことができる。
そのため何か無駄な公共工事のようにも見えたのだが、交通量も多い道路であるし車の通行上はないとまずいのであろう。
もちろん自分は高架の下を通って大高緑地の入口へと向かう。実際渡ってみると確かに北へと向かう反対車線の車が多い時には高架があるといい気もするが、その日の交通量からはあまり必要性を感じなかった。
入口の方へ向かうと高架橋と下の道は後に合流するのだが、そこを少し行った所に大高緑地の案内図があるのを発見する。ところがそれを見ても正直マラソン会場となる場所は全然分からなかった。
それでも車の流れがある方向に向けてできていて、奥の登り坂を登っていけばいいことはすぐに察しがつく。そして辺りをよく見てみると…
木の幹の所に小さい紙に「受付・会場 直進」という張り紙がしてあったのだが、正直小さすぎではないかというのが第一印象だった。
木の近くまで自転車で近寄ってようやく見えるぐらいの大きさで、しかも白黒…看板の意味をほとんどなしていない気がしたのだが、この後この大会で見た看板はだいたい似たような造りになっていて、とにかく小さく見づらい。次回の大会があるならもう少し工夫してもよいのではと思わざるを得なかった。
更にその登り坂、なぜか低い木で遮られている上に車道から歩道へと渡るスペースがなく坂の上の方まで続いており、仕方なく車道の端を自転車を引いて歩いて登っていく。
するとほどなくして大きな駐車場のある場所に出るが、ここでようやく明らかにマラソンに参加するであろうランナーの格好をした人たちがアップをしたりしている姿を目撃することができた。後から調べてみるとそこが第1駐車場らしい。
それにしてもその間に気になった事はというと、歩いて会場に向かう人は非常に少なくてほとんどの人が車で会場へ…このあたりが車社会である名古屋を象徴する大会なのかもしれない。
特に緑区は来年の2011年の春に徳重まで桜通線が開通予定であるものの、元々地下鉄の駅はこれまで1つも通っていなかったこともあり車移動が基本なのは仕方がないのかもしれないが、いざ来てみるとそれを痛感させられる光景だった。
それから第1駐車場を奥へと進んでいくとボート小屋のような建物があり、その手前に自転車やバイクが何台か停まっていてそこに自分も自転車を停める。
そしてそこから右の方に目をやると芝生公園と呼ばれる大きな広場が見え、そこにたくさんの人が集まっていて賑やかな雰囲気を醸し出していた。
そこが大会のメイン会場だったのだが、子供が遊ぶ遊具などもたくさんあって普段は公園として市民の憩いの場になっているであろうことが容易に想像できた。
そしてその自転車を停めた前方にはボート乗り場があり、それはすぐ横にある琵琶ケ池という池で楽しむためのもので、池自体は後から地図で見てみたのだが結構広かった。
ただこの日はなぜかシャッターが下りていて、隣接する売店も含めて閉店休業状態…こういう大会が開催されるのに何でというのは率直に疑問に感じたことである。
それはさて置き自転車を停めるとさっそく人のいる賑やかな方へと足を進めていく。
途中には公衆トイレもあり、更に一応仮設のトイレも3つほど置いてあってトイレに関しては一応合格点としておこう。
もっともとりあえずトイレは素通りしてまず大会受付へと向かうことにする。
すると芝生公園を入ってすぐ右手の所に机が何台か置かれていて、赤いジャンパー姿の人たちが受付だとすぐに分かった。
ただ普通はその机を覆う白いテントがあっても良さそうなものなのだが、それがまったくない。
雨などもし悪天候になっていたらどうするつもりだったのかという疑問は残るし、正直パッと見て分かりにくいのでこの点も努力が必要ではないかと感じざるを得なかった。
ただスタッフの方は一生懸命頑張ってくれていたし、ハーフや10キロと部ごとにきちんと分けられていたので混乱することはなく受付を済まし、ゼッケンや参加賞などを受け取ることはできたのだった。
それから着替えられそうな場所を探すが、更衣室のようなものは一切見当たらず、広場の入って右手、受付の後の方が少し丘のような傾斜になっていて、そこで着替えている方が多かった。
もっとも自分はここで先にトイレにいって用を足しておいた方が無難と感じ、来た道を戻り公衆トイレの方へと入る。
するとそれは懸命な判断だったらしくまだそんなに混んでおらず待つこともなく用を足すことができたのだが、公衆便所ということもあってかあまりきれいとはいえず用を足すのには正直苦労した。
それでもこれでトイレの心配なく大会に参加できることとなり、安心して着替える場所を探しに戻る。
結局着替えをしたのは先ほどの受付所の裏の傾斜を登って上にある屋根つきのベンチの所で、芝生公園を一望できるほど高い場所にあった。
そこでゼッケンをゼッケンホルダーで留めて装着するが、今大会はゼッケンだけはしっかり2つあり4つしかホルダーがなかったので2枚重ねて前の方に装着する。
もちろんナンナーズチップの方を上にしたのは言うまでもないが、それにしてもこの日は天気は良かったものの非常に寒かった。
何とか着替えが終わるとこの日は一人での参加だったため、当然荷物をどこかに預けなければいけなかったのだが、前もって調べてあったので荷物預かり所というのを探して芝生広場へと降りていく。
するとそれらしきものが見当たらず戸惑ったのだが、よくよく見てみると先ほどの受付所のすぐ左横にもう一つ机があって、そこに荷物がずらっと並べられていたのだ。
テントもなく野ざらし状態の所に確か青いシートが引かれていて、更にそこを管理しているのもどうやら若い兄ちゃん一人だけ…しかも荷物のそばで着替えているランナーもチラホラおり、これで預かり所?…と最初は思ったが、他にどうしようもなかったので荷物に何ともないことを祈りつつ仕方なく預けることとなる。
それと荷物を預ける際に普通は預かり札のような紙のタグをつけるのだが、それもビニールテープをちぎってマジックで番号を書くだけ…
費用節約は分かるのだが、こういった細かい部分もたくさん大会に出て来ていると嫌でも他の大会と比較してしまうので、大会に慣れているランナーたちにはバレバレ…
大会にとって決していい評判にはならないであろうから、手を抜かない方がいいと思う。
そしてこの時時刻は9時40分を過ぎていたが、まだハーフのスタートの時刻10時10分までは30分ぐらいの時間があった。
そこで広場やその周囲を少し探検してみることにしたのだが、そこで一つアクシデントが。
黄緑色のガチャピンのような着ぐるみを来た男性ランナーがいきなり準備体操でも始めようとしたのか腕を広げ、それが自分に当たったのである。
ラリアットを喰らったような感じだったのだが、幸い当たり所が悪くなかったので事なきを得たが当たり所が悪かったら歯でも折られていた所だ。
こんな事は当たり前のことだが、人がたくさんいる場所で準備体操する時ぐらいは周りには気をつけてもらいたいものだ。それにしてもこの日はろくなことがなかった。
それから9時50分ぐらいにピンク色のゼッケンをつけたランナーたちが一足早くスタートして道を駆けていくのを目にする。
後からみるとそれは5キロのランナーだったようで、ようやくマラソン大会らしくなってきてちょっとホッとしたのを覚えている。
そして芝生広場の周囲も当然のように探索したのだが、するとゴール地点はすぐ横の道に設置されていたのだがこれがまた何とも…
第1回目の大会で仕方ないのかもしれないが、普通こういった大会で必ずといっていいほどあるドーナツ型のゲートも、一歩レベルが下がったとしてもあるであろう垂れ幕もなく……青いコーンと仕切りのラインは確かにあるのだが、パッと見でゴールと分からなかった。
ただなぜかランナーズチップは採用されており、そのマットが置いてあるのがそこがゴールであることを物語っているという何とも奇妙な光景だった。
一方そのゴールラインのすぐ横にあった完走証の発行所だけにはなぜか白いテントが立てられていて、ここは普通の大会と同じで及第点だった。
それでも白いテント用意できるのなら、受付所を含めもう少し用意した方がもっとマラソン大会らしくなったと思う。
芝生広場の奥の方はというと前述の通り子供向けの遊戯施設がいくつかあって、そこでは大会にも関わらず母子が楽しく遊んでいる光景が見られてほのぼのとした雰囲気に少し気持ちが温かくなる。
特に滑り台はものすごく長く、まるでジェットコースターのようで滑る部分にはローラーのようなものもついていて、自分が子供だったらぜひ乗ってみたいほど楽しそうだった。
そしてその遊戯施設の手前の所には唯一といっていい売店があり、サングラスとかウェアとかシューズとか、スポーツ用品を中心に販売していた。
ちなみに店の裏に停めてあったワゴン車は京都ナンバーだったので京都から来たのであろうか、それなら本当に御苦労様である。
ただなぜか食べ物を売っている店が一つもなく、それがこの寒空の中ただただ残念で仕方なかったことである。温かいお茶でもうどんでも販売していたら飛ぶように売れたであろうことは容易に想像できたのだが…
そして時刻が10時を回った頃、ようやく動きが出て黄色いゼッケンを付けたハーフのランナーたちが集まり始める。
自分もヴァームゼリーを飲んで臨戦態勢を整えるが、そこからスピーカーを持った結構年配の男性がいろいろと指示を出し、ここからスタートまではスムーズに行うことができたのは率直に評価したい。
また待っている間に10キロの部のランナーが自分たちの横を駆けていったのだが、その時にも応援するように促したりで、そのあたりは非常にいいことで声をかけてもらった10キロのランナーたちも気分よく走れたことと思う。
ただこの年配係員以外の大会スタッフ全体にそういう意志統一がもっとあれば、もっといい大会になったのにという残念な思いも振り返ってみると強い。
5分も歩いていないと思うが集合場所から少し道を進んだあたりで止まり、どうやらそこがハーフのスタートラインらしかった。
スタートに関してはゴールと違う場合は得てしてこんな場合もあるのでそんなに違和感はなかったが、ランナーズチップを計るマットもないのでネットタイムは出ないだろうということは予測ができていた。
ちなみに自分は結構前方に並んでしまったのだが、それが毎回そうなのだが今回も失敗の元だった。
それからランナーたちの歩みが止まると先ほどの年配の係員がスピーカーを手にコースについての説明などをしてくれたのだが、気になったのは結構な坂があるという話であった。
高低差60メートルぐらいという表記はランネットでも紹介があったのだが正直イマイチピンと来ていなかったので、てっきりかなりフラットなコースだと勝手に思い込んでいた。
仮に坂があったとしても、これまで宇治川ロードレースとか坂のきついコースは経験しているので大丈夫だという油断もあったのかもしれない。
そして10時10分、予定どおりに先ほどの年配係員のピストルの合図でスタートの幕が切られる。
10秒前になってから若干早い気がして他のランナーも同じこと言っていたのだが、まあそれは御愛嬌ということでよしとしよう。
ランナーたちは一斉に駆け出していき、自分もそれに釣られるように少し早目のペースで序盤を進んでいった。
スピード自体はこの前の週に二条城でハーフの距離を走っていたこともあったし、それ以前の最近の大会で10キロでまずまずのタイムも出ていたので不安はなかった。
そして最初の1キロの手前までは多少の起伏はあったもののまずまずの感じで足を進めていけたと記憶している。
ちなみに今回のコース、1キロが5300メートルぐらいで、それをハーフは4周走ることになっていた。
そしてその1周の周回の中ではちゃんと距離表示があって、端数の300メートルはあるものの大体の時間は測れるようにはなっていた。
しかし最初の1周目では1キロの表示は確認することができずペースが分からないまま走っていたのだが、そこを過ぎて左に折れた所でいきなり急な下り坂になる。
そしてここは車道も走れるのになぜか途中まで歩道を走らされ、そこがかなりデコボコしていて後から見ればとても危険な場所だった。
案の定もう少しで車道に移動しようという辺りで、何といきなりそのデコボコに足を取られてしまい、派手に転倒してしまったのである。
これが携帯電話を右手に持って走っていたものだから片手でしか受け身を取れなかったこともあり、左ひじと左ひざには大きな擦り傷ができてしまうぐらいだったし、その時は何でもなかったのだがマラソンのラストに急に痛みが出て、更に数日はろっ骨と背筋にも痛みが出たぐらいで、正直これまでレースをしていて最悪のアクシデントとなった。
ケガをしたから言うのではないが、あんな急な坂道を走って下るのはかなり危険が伴うのになぜデコボコの歩道を走らせるのか、そして大して交通量もないのだから交通規制をして平面のフラットな車道を走ることができるように次からはすべきであると思う。
今回は第1回目ということで多少ランナーの数も少なかったとは思うが、もっと参加者が増えたりしたら後ろのランナーも巻き込まれたりして大事故にもなりかねない。
正直この転倒で今回は1キロ過ぎにしてもうレースは終わったと正直思ったのだが、このケガがかえって気持ちに火をつけ何くそという気持ちで頑張って走り続けることになる。
しかしそんな気持ちを打ち砕くようにこの坂を下った直後、今度はひたすらに上り坂が続くことになるのである。
坂を下り終えて少し進むと目の前に現れたのはかなり急な勾配の上り坂…2周目ぐらいからここで坂道ダッシュをしているどこかの運動部の人たちもいたのだが、坂道ダッシュで鍛えようとするぐらいの上り坂で、更にそれがそれより先3.5キロぐらいまでくねくねと曲がりながらひたすら坂が続くのだ。
しかも路上には落ち葉が積もったりしていてあまり路面も良くないという有様…ここを登っている最中にもう今回記録を狙うのはとても無理だということが肌で分かったのだった。
ただこの途中で2キロの表示が目に入ってきたのだが、それを見ると転倒したにも関わらず10分を切って9分40秒を少し切るぐらいのタイム。
ネットタイムも今回はほぼ一緒なのだがそれにしてもかなりのスピードでここまで来ていたことが分かり、これを維持できればという気持ちで先へと進んでいく。
そして3キロの表示も確認できたのだが、ここでも写真を撮ろうとするが間に合わなくて上手く撮影できていない。
今回は最初の方はこんな事ばかりだったが、撮影時間を見ると時刻は10時25分ぐらいでまだこの時点では形の上で1キロ5分ペースで走れていたようだ。
3キロの表示が過ぎてもう少し坂を登ると今度は下りになり、そこからは公園の遊歩道のようなコースを走る。
和風庭園とか菖蒲園とか梅林とか大高緑地公園の地図を見ると書いてあるので、散歩するには多分いいコースなのだろう。
そしてその途中に4キロの表示があって、そこを左に曲がってすぐにもう一度短い登り坂があるのだが、これが登り下りを繰り返してきた足には相当堪える。
時刻を見ると10時31分で、もうこのあたりで既に1キロ6分近いペースに落ちていたと思う。
それから遊歩道を渡り終えると再び広い道に出て目の前に大きな池が見えてきたのだが、これが実は琵琶ヶ池だった。
そしてその池に沿って反時計回りにぐるっと走っていくと最初来た時に見たボート乗り場の前を通り、トイレの横を通ってゴール地点へと戻ってきて、そこで1周が終わるというコースになっていたのだった。
ゴール地点は別の距離のランナーなどが応援してくれているのであろうか結構人の応援する姿も見ることができ、それでだいぶ元気を取り戻していた。
その先の輪ゴム回収所を通ってスタート地点に戻ると2周目へと突入することとなる。
1周目を終えた時の時刻は大体10時38分でスタートから28分以上が経過していて1キロ5分半ペース。この分だと1時間50分台後半が濃厚だが、この後の疲労度によっては2時間も超えるような状況だった。
2周目からはこれまで走ってきた道を正確になぞっていくだけだったが、特に転倒した1キロ地点を過ぎた後の下り坂はやはり気をつけざるを得なかった。
そしてそれが終わるとまたずっと登り坂が続いていたのだが、1キロの表示はまたしても確認できず、更に2キロの表示も見つけることができなかった。
それでタイムも計れず苦闘が続き、坂を登りに登って3キロの表示が。時刻を見ると10時55分ぐらいで、3キロで17分はかかっている計算だった。
まあそれでも登り坂でこのタイムなら本当はそんなに悪くないのだが、このレースでは登り坂に入るとどんどんと抜かれていき、平地や下りでは抜き返すという光景が何度も繰り返されたので、やはり自分は坂道は苦手なのだと改めて思う。
そして坂を登り切ると遊歩道に入る手前、ゴルフや交通公園のすぐ近くの角のあたりで初めての給水を迎える。
これが2人のおばちゃんが机一つで必死に水を紙コップに入れて頑張っていたのだが、やはり参加者が少ないとはいえスタッフも机の数もあまりに少ない気がする。
紙コップに入っている水の量も少なくて2つ取ってもまだ足りないぐらいだったが、周りのランナーにも当然気を配らなくてはいけないのでもちろん一人でそんなにたくさんは取れない。
夏ではないのでまだ我慢できたが、正直一息つけるはずの給水が給水になっていない状況だったのは残念だ。
更に遊歩道のような道の4キロ地点に到達したのが11時1分、やはり1キロ6分ペースに限りなく近づきつつあった。
それから同じようにして琵琶ヶ池の周りを走り、ボート乗り場の前を通って2周目を走り終えてゴール地点を通過した時には時刻は11時8分。
スタートからちょうど半分でタイムは58分と30数秒ぐらいで、同じペースであと半分走り切らないと2時間超えが濃厚なペースとなっていた。それでもとにかく辛抱して3周目へと突入する。
3周目に入るとさすがに早いランナーたちに周回遅れにされるという光景も頻発するようになり、分かってはいるもののやはり精神的にはダメージになる。
しかも確か3周目に入った直後だと思うが、スタートラインに緑色のゼッケンのランナーたちが並んでいて、どうやらフルマラソン参加者がスタートを開始するらしかった。
ちょうど自分がスタートラインを過ぎてしばらく経過してからスタートしたので、まともにフルマラソンの速いランナーたちにごぼう抜きにされるという憂き目に遭う。
その後もペースの速いランナーたちにどんどんと抜かれていくことになり、タイミングとしては最悪というか何とも間が悪かった。
まあこのような感じで今回は総じて散々な事が多かった大会である。
1キロ過ぎでもうフルの速いランナーと団子状態でまあ賑やかではあったのだが、坂道ダッシュの坂も苦労して走るがどんどんと追い抜かれていく。
それでも自分のペースを守り抜くのがやはりマラソンというもの、辛抱して走り11時25分に3キロの表示を確認。ちなみに1キロ2キロはこの周回も見つからなかったと記憶している。
3キロ地点ではまたしても3キロ約17分のペースで、これは2周目の時とさほど変わらない状況だった。
これならひょっとしたら2時間を切れるかも、と手ごたえを感じ若干元気が出てくる。
そして2度目の給水を終え4キロ地点に差しかかったのが11時31分過ぎ、更に遊歩道を過ぎて琵琶ヶ池沿いに走りボート乗り場の横を通ってゴール地点に戻った時には時刻は11時39分を過ぎていた。
残り5.3キロでタイムは1時間29分ちょっとだから、頑張れば2時間を切れそうなタイムだった。
ただここからが正直しんどい状態だった。最終となった4周目は序盤はまずまずの滑り出しで、今回は1キロの表示も2キロの表示も見つけることができる。
何と3キロ、4キロの表示は道路右にあるのだが、1キロと2キロは道路左にあったのだ。どうりでよく見ていても見つかるはずがなかった。
ちなみに1キロ地点は11時45分、2キロ地点は11時50分に通過しており、ここまでは結構いいペースだったことがタイムを見ても分かる。
そして3キロの通過は11時57分で、このあたりから急に調子が悪くなってくる。特に1周目で転倒した時に打ったのか左のろっ骨から胸にかけてが苦しくはないのだが痛みがあり、まともに走れなくなってきていた。
このあたりから格段にペースが落ち、4キロの通過が12時3分過ぎで、2時間を切れるかどうかはかなり微妙な状況となっていた。
それでも無理をしてペースを上げる余力は残っておらず、とにかくできる範囲で足を運んでいき、琵琶ヶ池を回ってボート乗り場あたりに来た時についに無情にも2時間を経過してしまう。
そしてゴール地点を通過したのは12時10分過ぎ、タイムは2時間00分50秒であった。
ただ1周目でいきなり転倒負傷し、3周目か4周目か忘れたのだが給水直後に枝に帽子が引っ掛かって落ち、慌てて取りに戻るアクシデントなどもあった割にはよく諦めずに頑張って走り切ったと思う。
ゴールするとすぐ横の所でスターターも務めた年配の係員の方がランナーズチップを回収していたのだが、その場で取ろうとすると疲れもあってか手が思うように動かずゼッケンが少し破れてしまう。
それを見た係員の方が自分が取るからと言って慎重に取ってくれ、それから完走証を発行所のテントに行き受け取った。
更に受付所で混ぜご飯とお茶の入ったカップを受け取ってゼッケンにマジックで印をつけてもらうと、その横の荷物預かり所から荷物を受け取り、傾斜を登って朝着替えをした屋根のついたベンチの所に向かう。
そこまで来るとようやく一息ついた気分になり、記念撮影をした後にすりむいた左ひじを見てみるが、やはりかなり出血していて、それがゼッケンやタオルにもついているのが後で分かった。
さらに走っている時には気づかなかったのだが、下に履いているパンツも無事では済まず、左ひざの辺りが少し破けてしまっていた。
まあいつかは傷がついたりすることは覚悟はしていたのだが、こうも早いとちょっとショックではある。
それでも普段はあまり曲げ伸ばしする所ではないので、これからも上手く使っていっていきたいと思っている。
それから寒さと擦り傷の痛みを我慢しながら何とか着替えを済ませるが、そこでゼッケンホルダーの1つがなくなっていることに気づく。
思い出してみても落ちるとすればランナーズチップ回収の時以外は考えられなかったので、後でその付近を探しに行ってみる。
すると完走証発行所のテントの前あたりに落ちているのを無事発見することができた。散々な一日の中では不幸中の幸いであった。
普通ならそこで一服してご飯なども食べるのだが、周りを見渡すと温かい物を売っている雰囲気はなかったし、暖を取るのも難しそうだったので、お茶だけ飲んで混ぜご飯はバッグにしまう。
それからもう一度ゴール地点の撮影だけ済ませると、早々と会場を後にすることになった。
そしてその途中、公衆便所の前にある水道でゴールまでまったく洗えなかったひじだけはきれいに水洗いしておいた。
ただ最後までこの日はツキのない感じで、そのせいか水も非常に冷たく感じた。時刻は12時40分を少し回っていた。
それから自転車を回収し第1駐車場を通って左京山の入り口方面へと戻る。
途中来た時にも目にしたものの車道から歩道に行けなかったので撮影を諦めた大高緑地のオブジェのような銅像のようなものの撮影も済ませるが、やはり歩道から車道に出るスペースがなくて、もう一度坂を登って第1駐車場の近くまで戻って来なければならなかった。
12時50分ぐらいに大高緑地を後にして、そのまま自転車に乗り東海道を東へとずんずん進んでいく
いろいろとあったマラソンだったが、気持ちを切り替えられたのはこの後近くにある桶狭間を見に行くことになっていたことも大きかった。
道は非常に分かり易く、しかも前日ネットで詳細に調べてGoogleの地図も出しておいたので、迷うことなく桶狭間の交差点に13時ちょうどに到着する。
桶狭間といえば日本人なら知らない人はいないぐらい有名で、歴史でも織田信長が台頭し戦国時代の転機となった大きな戦いの一つとして知られている。
ところがその知名度の割には、桶狭間の合戦跡というのは名古屋出身・かつ30年以上も住んでいる自分でもあまり聞かないぐらい何か整備されている訳でもない場所でもあった。
ただ実は2010年というのは桶狭間の戦いの1560年からちょうど450年目ということもあり、公園に銅像が建てられるなどいろいろと整備されているらしい。
とはいえ名古屋に住んでいて織田信長ファンの自分も今回調べるまで耳にしないぐらいひっそりとで、名古屋開府400年は非常に大々的にやっていたのと比べるとえらく違いがあるものだといわざるを得なかった。
自分が調べた限りでは桶狭間の名所旧跡は東海道を大高方面から豊明市の方へ東へ進んでいき、桶狭間の交差点で右に曲がって南へと続く道路沿いに集中している。
とはいえすべてがその通りに面している訳ではないのでいろいろと調べた上で歩き回らないといけないため、ちょっとした宝探しというかミステリーツアーというか結構楽しい観光となったのである。
まず桶狭間の交差点で何枚か記念撮影をすると、興奮する気持ちを抑えて右に曲がり南へと進んでいく。
ただその道は周りは民家ばかりの一般道路で、道もそんなに広くなく歩道もないぐらいなので気をつけて自転車を進めていった。
行きは若干上りになっているので、マラソン直後で足が上がらない自分は途中から自転車を降りて歩いたりもしながら周囲を慎重に見回しつつ先へと進んでいく。
最初の目的地は実は一番手前にあるはずの高根山という山だったのだが、そこはパッと見た感じでどういったらいいか分からず、後回しにして先に進むことになる。
ちなみに今回行く予定で桶狭間の戦いのサイトでも特集されているのは以下の9つである(カッコは近くにあるバス停の名前)
ただいろいろと調べてみてもはっきりとした場所が書いていない所がほとんどで、だからこそ宝探し的に楽しめたのだが、一番の目的は4番の桶狭間古戦場公園だ。
これが450周年で織田信長と今川義元の銅像も建立されて整備された公園と聞いていたからである。
次に見えてきたのは釜ヶ谷という場所があるはずの地蔵池で、バス停はすぐに見つかり、目の前にお地蔵さんが祀られ地蔵池があるのはすぐに分かったのだが、肝心の釜ヶ谷というのは全然分からなかったため、仕方なく更に先へと進んでいく。
ただこの頃というよりもマラソンの途中で既に携帯電話の電池のメモリが1つ減って残り2つになっており、あまり写真をバシバシ撮影できない状態になっていた。
この日はちょっと前にauから送られてきた予備の電池パックがまだデビューする前の最後の観光だったからである。
そんな調子でスタートから連続してつまずいたこともあり、これで無事全部回れるのだろうかという不安も感じはじめていたのだが、すると目の前にピアゴが見えてきて、その上に道路標識で「桶狭間古戦場跡 左へ100m」という表示が見えてくる。
それでようやく桶狭間にやって来たのだと興奮を覚えたのだが、ちなみにこのピアゴは桶狭間店でその駐車場の東側すぐの所に公園はあるのだ。
ピアゴは建物の上の方に目立つ看板もあるので、これを目標にこの場所を目指せば見落とすことはまずないと思われる。
ピアゴの駐車場に隣接するようにしてすぐに公園が見えてきて、更に周囲には「桶狭間古戦場」という昇りというか旗が掲げられているので、すぐに発見することができた。
そして入口には大きな看板で「桶狭間古戦場公園」と書かれており、やっと到着することができて嬉しさと同時にホッとしたものである。
公園は住宅地ならどこにでもあるような普通の公園で、入口から見て左側だけを見たらまったく他の公園と変わらないであろう。
しかし右側を見渡すと普通の公園にはあり得ないであろう立派な像が2体建っていて、歴史ファンにはたまらない光景がそこには広がっているのだった。
2体の像は織田信長と今川義元で、信長がカッコよく描かれるのはいつものことだが、義元も戦国大名らしく非常に凛としていて立派な風貌をしている。
ドラマだとどちらかというとお歯黒で平安貴族のように描かれなよなよとしたイメージで、信長を侮ったために討たれてしまった暗愚な武将として描かれがちだが、実際は後世の創作部分が多いらしい。
その実像は卓越した内政・外交手腕により駿河・遠江と三河から尾張の一部にまで勢力を拡大し、「海道一の弓取り」と呼ばれてあの名将といわれる甲斐の武田信玄や相模の北条氏康とも対等以上に渡り合った名将なのである。
ちなみにこの桶狭間古戦場公園は「田楽坪」と呼ばれ義元が戦死した地とされている場所で、従来からいろいろな記念碑も建てられていたのだが、450周年を機に整備されこの年の5月に二人の銅像が建てられたのだそうだ。
そして銅像の奥には「桶狭間の戦いジオラマ解説板」なるものがあり、その向こうには桶狭間周辺を再現したジオラマが石や草などを使って作られている。上空から見ればまさしく桶狭間周辺が一望できるという趣向だ。
電池の残りも考えつつ十分に周囲を撮影し公園の雰囲気も満喫したのだが、あまりここに長居をすると冬至の直後で陽もあまり長くないため、全部見終わる頃には真っ暗などと言う事にもなりかねず次を目指すことにする。
幸い公園には「桶狭間めぐり」という名前の案内板が設置されていて、そこに今回自分が行く予定になっている場所が全て地図で網羅されていた。
それを見ながら自分の持参してきたグーグルマップのコピーの紙にだいたいの印をつけ、それを頼りに自転車で回る旅を再開する。時刻は間もなく13時半になろうとしていた。
桶狭間古戦場公園を後にするとまずとにかく一番南、桶狭間寺前にあるあたりは全部先に回ろうということで、公園を南へと向かう。
するとすぐに大きな池が見えてくる。名前のそのまま大池というらしく、そこを右に曲がって池に沿って反時計回りに回っていったのだが、すると池の東側には「桶狭間の戦い 450年 古戦場まつり」の文字が書かれている札が柵の所につけられていた。
2011年になったらおそらくこれは外されているかもしれないので、こうやってギリギリでも見ることができて本当に良かったと思う。
そして池の南西、桶狭間の交差点をずっと南に下ったのと重なる位置に桶狭間寺前のバス停があり、それに隣接するようにして8番の「戦評の松」があった。
これは合戦の際に今川方の武将である瀬名氏俊が松の根元に武将を集めて戦争の評議をした場所らしいのだが、実際にここに植えられていた当時の松は台風や虫の被害で枯れてしまっていて、現在の松は当時を偲ぶ場所として新たに植樹されたものなのだそうだ。
2つ目の目標を達成すると段々と調子に乗ってきて、次はそこからすぐ南にある9番の桶狭間神明社を目指す。
幸いというか神明社については戦評の松のある近く、大池側の歩道の所に道しるべがありその道しるべの指す方向へ自転車で坂を少し下った所に簡単に見つけることができた。
ちょうど神社の左横には桶狭間の公民館があって、大人と小学生ぐらいの子供が何やら騒いでいる最中だった。
神社の入口にもたむろしていて入りづらかったが、ここまで来て中に入らないのもあり得ない話なので、外観写真を撮影すると意を決して中に入っていく。
この神社は前述の今川方の武将である瀬名氏俊が戦勝祈願し酒樽を奉献したとされている場所で、中はいたって普通の村の神社という感じの場所だった。
そしてそこにもいたお子様たちの元気に騒ぐ声もなんのその、しっかりお賽銭を入れてお参りすると、南側にも出口があったのでそちらから出る。
結局そのまま迂回して自転車を回収してその場を後にしたのだが、この辺のお子様たちは元気が良い子供ばかりであった。
観光している側からすると寺社仏閣特有の厳かな雰囲気が少し損なわれるのだが、まあこういうのもよしとしよう。
一番南に位置する神明社をクリアすると少し気分も楽になってきて、今度はこの周辺で残っている2つのうちまず7番の長福寺を目指す。
目指すといってもお寺は大池の東側に隣接するように建っていたため迷いようがなく、問題なくすぐに発見することができたのだった。
長福寺は桶狭間の戦いの際に今川方に酒や食料を献上したという話が伝わり、またその他にも今川公首検証の跡が境内にあるらしい。
入口から少し坂を登った所に入口がありそこまでは行けたのだが、中は工事中のようにも見えしかも人っ子一人いなかったので、中にとても入れる雰囲気もなく、入口の前で撮影を済ませるとその場を後にした。
そして次は6番の瀬名氏俊陣地跡だが、これは長福寺の入口前に方向を指し示す案内標識があったため、お寺のすぐ北側で大池沿いの道にすぐに発見することができた。
もっともこの瀬名氏俊陣地跡、あくまでも名前の通りの陣地跡でしかも現在は草むらのようになっており、陣地跡を示す石碑と説明の表札が立っているだけである。
そのためそれを見てその当時を偲ぶことしかできないのだが、何とか見つけることができて良かった。
これで桶狭間寺前周辺の史跡はすべてクリアでき、後は5番のおけはざま山、3番の七ツ塚、2番の釜ヶ谷、1番の高根山の4つだけとなった。
しかしこれらはすべて桶狭間古戦場公園の北側にあるため、一度桶狭間古戦場公園へと戻ってくることになる。
まず一番近そうだったのは5番のおけはざま山で、地図をチェックした限りでは桶狭間古戦場公園の東にちょっと行った所だった。
そのため桶狭間古戦場公園とピアゴ桶狭間店の駐車場の間の道あたりまで戻って来ることとなったのだが、その辺りでまた先ほどと同じような案内標識を発見する。
そこには残されていた釜ヶ谷とおけはざま山(案内標識では今川本陣跡)の表示があり、行き方も分かりやすく書かれていた。
それに従ってまずおけはざま山に向かうことにしたのだが、どうも案内標識にきちんと従わず道を一本間違えたらしく、ぐるっと回って坂を下りまた古戦場公園へ戻ってしまうのではという坂道の途中で、その旧跡を見つけることができたのだった。
勾配の強い下り坂の真ん中あたり、家やマンションが立ち並ぶ住宅地の道路脇にポツンとその場所はあり、坂の下にはピアゴ桶狭間店も見えていたのが印象的だった。
これなら本陣を敷くのも分かるロケーションだが、実は今川義元の本陣があった時と現在では高さが違っているらしい。
それにしてもこんな住宅地の真ん中に建っているとは…
これだけ住宅地に溶け込むような形で存在しているとこの旧跡の真ん前に建っている家やマンションの住人にとってはこの石碑は珍しくもなんともないのであろうが、戦国ファンである自分にとってはとても特別なものだった。
そのまま坂を下りると再び古戦場公園の近くに戻り、先ほどの表示板の所に再び戻ってくる。
そしてそこから矢印の通りに今度は2番の釜ヶ谷を目指して自転車を進めていった。
こちらは非常に分かり易く、しかも途中で高速道路か何かの高架を抜けていくので帰りも間違うことはなかった。
ちなみにもうこのあたりになると携帯の電池もすでに目盛が1つになっており、あまり無駄な撮影は控えるようになっていた。
釜ヶ谷は信長軍はおけはざま山に陣を敷く今川軍に対する突撃の機会を伺い待機していた場所らしい。
先ほどのおけはざま山からは自転車でもすぐで、ここまで信長自身も近づいて攻撃の機会をうかがっていたからこそ義元を討つことができたというのは妙に納得できた。
それぐらい緊張感のある場所だが、今はその場所は空き地のようになっていて、すぐ左隣には桜花学園大学名古屋短期大学の校舎があるので、それさえ知っていれば簡単に見つかるかもしれない。
釜ヶ谷を制覇すると残るは七ツ塚と高根山の2つだけ。
まず3番の七ツ塚は最初に桶狭間の交差点から南へ向かう最中に道沿いの途中に標識も出ていたのを見つけていたので、一度その通りへと戻る。
それから近くにあるという武路公園に差しかかった時、その入り口に再び案内標識が掲げられているのが目についた。
それと今回の9つの旧跡の所には450年を記念した青い昇りも上がっていたので非常に分かり易かった。
そして武路公園前の案内標識に沿って道を曲がると、その道の真ん中あたりで目的の七ツ塚の表示が見つかる。
しかしおけはざま山と同じく何とこの旧跡も閑静な住宅地のど真ん中、しかもこちらは民家と民家の間に細々とした通路が作られそこを奥へ進んだ所にひっそりと建てられていたのだった。
問題の石碑は今川義元を討ち取った信長が勝ち鬨をあげた場所で、その後村人がこの周辺に七つの穴を掘り戦没者を弔ったことから七ッ塚と呼ばれているらしい。
最近まで7つのうち2つが原形を留めていたらしくこれを取り壊すと祟りがあると恐れられていたそうなのだが、平成元年の区画整理に伴い塚は整理され統合碑がこの場所に建てられたのだそうだ。
そういう戦争の犠牲者を弔う厳粛な場所でもあるので、手を合わせてその場を後にしたのだった。時刻はこの時14時15分を回ったぐらいだった。
七ツ塚を制覇し、これでついに残すは最初来た時に後回しにした1番の高根山のみとなった。
ただ高根山は地図で見るとよく分かるのだが桶狭間の交差点から一番近い所にあるので、まずは桶狭間の交差点の方へと戻る。
それから行きとは反対の高根山側の道を自転車をこぎながら上へ上る道はないかと探していると、もう桶狭間の交差点に着こうかというあたりで急こう配の坂を発見する。まさしく交差点を南右に曲がって南へすぐの所だったのだ。
その坂はとんでもない急こう配で苦労しながら歩いていく。すると左手に見えたとある家に元気に吠える犬がいて、それが奇妙なことにこちらを見ずに後ろ向きで吠えているのが印象的だった。
そしてそこをすぐに上がった所に有松中学校という学校があり、さらにその学校の入口を入らずに左にぐるっと続く坂を上がっていくと、一番頂上の所に神社の鳥居が見えてくる。入口には有松神社と書かれていた。
これが本当に傾斜のきつい大変な坂道で、毎朝通っている中学生諸君はすごいと思う。
ちなみに坂を上がっている時、有松中学校の校庭では運動部の女子学生が練習を一生懸命していたが、あまりじっと見つめるのも失礼だったのでしっかり見てなかったこともあり、競技が何だったかちょっと忘れてしまった。多分テニスかバトミントンかバレーだったのではないかと思う。
神社の前に到着するとまず自転車を停めようとしたのだが、これが坂がきつすぎて立てて停めるのは危険なため横に倒して置いた。
右にある民家ではおばあさんが作業していたのだが、かなり年配の方が家まで登ってくるのは大変なのだろうなと要らぬ心配をしてしまう。
高根山の頂上に立つ有松神社はそんなに大きいものではなく、町にある小さな神社という雰囲気だった。
今川軍の先陣だった松井宗信がこの地に着陣したらしいが、織田軍の善照寺砦や鳴海城が一望できるというのは納得の見晴らしのいい景観がそこには広がっていた。
帰りは自転車を引きながら坂を下るのもちょっと大変だったが、こうして桶狭間の旧跡を巡る観光の旅は見事に完全制覇でその幕を閉じたのだった。
そして14時37分に桶狭間の交差点を後にして、中汐田までまっすぐ戻り、そこから北へ進んで野並から植田一本松を通りいつもの通勤の道に戻るまではかなり遠く感じた。
たぶん疲れと冷え、それに昼ごはんを何も食べていなかったのも大いに影響したと思う。
帰りには確か野並駅前だったと思うが、ヤマダ電機と建物を同じくする服部家具が閉店セールをしていて、まるでヤマダ電機が閉店するのではと勘違いしそうになる光景に出くわしたりもした。
自宅近くまで戻ってくるとそのまま家に帰らず近所の西友で買い物してから、16時頃に帰宅する。
それからM-1グランプリの敗者復活戦を見ていたが、体を温めたいこともあって早目に風呂に入る。
18時ぐらいから晩御飯を食べ、M-1グランプリの決勝、終わった後フィギュアスケート全日本選手権の女子などを見てから友人に電話して22時半ぐらいには寝る。疲れもありぐっすりだったと記憶している。
今回の大会は率直にいってあまりいい思い出を作ることはできなかった。
しかも実はこの日体が冷えたせいか翌日から体調を崩して年末年始はずっと風邪気味で過ごすことになっただけでなく、年末年始で病院に行けなかったこともあり完治するまで2週間以上もかかってしまい、年初に走る予定であった1月9日の新日本スポーツ連盟東海ブロック第33回新春マラソンも調整が間に合わずに残念ながら出場を断念することになってしまったのだった。
実はショックでマラソン大会ってこんなに楽しくないものだっただろうかと疑心暗鬼になったぐらいだったのだが、後からネットなどでランナーたちの口コミなどを見ても評価は100点満点で20点台と異常なほど低く、自分だけがそう思っていた訳ではないことが分かり少しホッとする。
ただもう少しよく調べていくとかなり確信犯なのか人の忠告を聞かないのか、新たな大会として第1回が開催されては評判の悪さで第2回目が開かれないという事が続いているらしく、名古屋で第1回の大会がある時は気をつけなければいけないと書かれている始末であった。
他の方に自分と同じ思いをしてもらいたくないのでここに記しておくが、マラソン大会というのはすべてが素晴らしいとは限らず、主催者の運営方法によってはひどい目に遭うこともあるので、公式サイトの有無や口コミなどはきちんと調べておいた方がいいと思う。
ちなみに荷物預かり所とかスタッフ全体の統一感のなさや、出店が少なく華やかさに欠けることなどは努力不足とはいえ仕方ないといえるかもしれないが、大会のチラシに書かれているサービスの「お弁当・とん汁等・食堂にて適時会食」とエイドステーションの「バナナ・チョコ・ビスケット・あめ・レモン・みかん・梅干し・固形塩・お茶・スポーツドリンク・水・その他」という表記は明らかに誤りだったのでその事実はここに記しておく。
実際に支給されたのは混ぜご飯と冷たいお茶で食堂などは閉まっていてなかったし食べ物の出店もゼロ、レース中は水道水だけであった。
レースのことはさておき、今回はレース後に桶狭間を巡ることができたのは大変収穫だった。
信長好きと言っておきながら桶狭間には一度も行くことができなかったので、今回こうやって信長の台頭のきっかけとなった戦いに思いを馳せることができて非常に嬉しく思っている。
ちなみにこのしばらく後の翌年1月27日木曜日には、名古屋ローカルの番組だがCBCテレビ「そこが知りたい 特捜!板東リサーチ」でこの桶狭間周辺が特集され、板東英二・久本朋子・古川枝里子CBCアナの三人がメインで今回の桶狭間古戦場公園などで軽妙なトークを展開していた。
自分が行くことができなかったJR有松駅周辺の美味しいお店なども紹介されていたので、今度桶狭間に行く機会があればそのあたりにも立ち寄りたいと思っている。