鎌倉時代後期の1333年に足利尊氏・新田義貞・楠木正成らとともに鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政をはじめたものの後に室町幕府を開く足利尊氏と対立し奈良の吉野に逃れて南朝を開き60年近くにわたる南北朝時代のはじまるきっかけとなった後醍醐天皇の足跡を辿るマラニック大会です。
1331年8月、側近の密告で1324年の正中の変に続き倒幕計画が事前に発覚すると六波羅探題の軍勢が御所に迫り、後醍醐天皇は三種の神器を持ち女装して京の御所を脱出。比叡山に向かうも失敗し山城国の笠置山で挙兵します。
これに応じて後醍醐の皇子・護良親王が大和国の吉野で、河内の悪党・楠木正成が河内国の下赤坂城でそれぞれ挙兵し奮戦しますが、笠置山は圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城し数人の共と落ち延びるも捕らえられて隠岐へ配流となりました。本大会はこの際の足跡を辿ります。
| 種目 | 参加資格 | スタート時間 | 制限時間 | 参加料 |
|---|---|---|---|---|
| 0km | 以上 | 0:00 | 時間分 | 0000円 |
後醍醐天皇は鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて活躍した人物で、楠木正成、足利尊氏、新田義貞らとともに鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を開始したもののやがて足利尊氏と対立。尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開いた(北朝)のに対し吉野で南朝政権を樹立し、3代将軍足利義満により南北朝が統合されるまで続く南北朝時代を知る上では欠かせない人物です。
鎌倉時代の後期、北条得宗家による執権政治に加え内管領の長崎氏が力を持っていた幕府も、二度の元寇以来続く政局不安や、諸国での悪党の活躍により求心力を失いつつありました。
一方その頃の朝廷では大覚寺統と持明院統の二つの系統が対立していたため、幕府の裁定により「両統迭立」と呼ばれる両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承することで解決が図られていたのですが、1318年に後醍醐天皇が即位すると自分が大覚寺統の嫡流派である兄の子が成人して皇位につくまでのつなぎの即位であり、自らの子孫に皇位を継がせることを否定されていた後醍醐天皇は大いに不満を募らせ、自ら思い描く政策を実施するため大覚寺統嫡流派と持明院統派それぞれの排除と両統迭立を支持する鎌倉幕府の打倒を強く望むようになっていったのです。
もっとも討幕計画は1324年の正中の変、1331年の元弘の変と二度までも発覚し、二度目の元弘の変では捕らわれて隠岐島に配流となってしまいます。
しかしその直後、天皇の討幕運動に呼応した河内の楠木正成や天台座主から還俗した後醍醐天皇の皇子・護良親王を支援する播磨の赤松則村(円心)らの活躍や幕府側の御家人である上野国の新田義貞、下野国の足利高氏(のちに尊氏)の朝廷側へ寝返りにより、諸国の反幕府勢力が徐々に結集をはじめたのです。
そしてその動きに呼応するように1333年に隠岐を脱出した後醍醐天皇が伯耆守・名和長年に迎えられて鳥取県の船上山で挙兵すると、足利高氏が京の六波羅探題を滅ぼし、更には新田義貞が鎌倉を攻めて北条高時ら北条氏一族を倒し、ついに鎌倉幕府は滅亡したのでした。
京に戻った後醍醐天皇は幕府や摂関による政治を廃し、天皇による専制政治を復活させるいわゆる「建武の新政」を開始します。しかしこれらの政策は武士勢力を中心に大いに不満を集めると足利尊氏の離反を招いてしまいます。
後醍醐天皇は楠木正成・新田義貞らに尊氏追討を命じますが、尊氏はいったんは敗れるも九州で態勢を立て直すと1336年の湊川の戦いで楠木・新田軍を破り、持明院統の光厳上皇を奉じて京へ戻ります。そして上皇の弟・光明天皇を新天皇に擁立するとともに建武式目を制定して室町幕府を開設(北朝)、ここに建武の新政はわずか2年半で崩壊したのでした。
三種の神器を渡して和睦した後醍醐天皇でしたが、1336年12月には京都を脱出して吉野へ逃れます。そして先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言するとここに吉野朝廷が成立(南朝)。その後後醍醐天皇は1339年に病に倒れ朝敵の討滅と京都奪回を遺言して崩御しますが、南北朝の抗争は1392年の室町幕府3代将軍足利義満による南北朝合一までの約60年間にわたって続くこととなったのでした。